■九七式中戦車のバリエーション
〜太平洋戦争における日本陸軍の主力戦車〜
|
九七式中戦車といえば第二次世界大戦において日本を代表する戦車として知られています。ノモンハンから始まって、大陸で、マレーで、ニューギニアで、フィリピンで、硫黄島で、沖縄で……あらゆる戦場で幾多の屍をさらし続けた戦車です。ここではそんな九七式のファミリーについて簡単に説明しています。
正式採用車両 |
名称 |
略符号 |
略歴 |
九七式中戦車 |
チハ |
日本で自力設計された近代的戦車。五七ミリ短砲身砲を装備。一五トン |
九七式中戦車改 |
新砲塔チハ |
九七式中戦車の主砲を対戦車戦を考えた四七ミリ長砲身砲に換装したもの。一五トン。 |
一式中戦車 |
チヘ |
九七式中戦車改の車体を再設計・全面溶接とし、防御力を強化したもの。一七・二トン |
三式中戦車 |
チヌ |
一式中戦車の車体に九〇式七五ミリ野砲を改造した三式戦車砲を装備させたもの。一八・八トン |
二式砲戦車 |
ホイ |
九四式七五ミリ山砲の車載砲を一式中戦車の車体に搭載した車両。 |
一式七センチ半自走砲 |
ホニI |
一式砲戦車の名もある珍しい車両。九〇式野砲(口径七五ミリ)を搭載した自走砲。 |
一式一〇センチ自走砲 |
ホニII |
九一式一〇センチ榴弾砲を搭載した自走砲。 |
三式砲戦車 |
ホニIII |
九〇式野砲を改良した三式戦車砲を搭載した対戦車自走砲。 |
四式一五センチ自走砲 |
ホロ |
三八式一五センチ榴弾砲を搭載した自走砲。 |
試作車両 |
名称 |
略符号 |
略歴 |
試製三式中戦車改 |
不明 |
三式中戦車の車体に四式中戦車の砲塔を搭載した車両。名称は暫定的なもの。 |
対空戦車 |
タハ |
一式中戦車の車体を使用した対空戦車。37ミリ自動砲を採用予定だった。 |
一五センチ自走砲 |
不明 |
チハ車に九六式一五センチ榴弾砲を搭載する予定だった車両。 |
九七式中戦車の関係有る車両 |
名称 |
略符号 |
略歴 |
九八式軽戦車改 |
ケニ改? |
一式中戦車の砲塔を搭載した軽戦車。 |
四式軽戦車 |
ケヌ |
ハ号に九七式五七ミリ戦車砲を搭載したもの。ただし、砲塔は九七式中戦車のものをそのまま載せている。 |
自重 |
14.80t |
全備重量 |
15.80t |
装甲 |
砲塔 |
前面 |
25mm |
全長 |
5.52m |
全幅 |
2.33m |
側面 |
25mm |
全高 |
2.33m |
最低地上高 |
0.40m |
上面 |
10mm |
履帯幅 |
0.33m |
設置長 |
3.54m |
後面 |
25mm |
接地圧 |
0.66kg/cm^2 |
乗員数 |
4人 |
車体 |
前面 |
25mm |
発動機型式 |
空冷V12ディーゼル |
最大速度 |
40km/h |
側面 |
20-25mm |
排気量 |
21.7l |
航続距離 |
210km |
底面 |
8mm |
筒径×行程 |
120×160mm |
携行燃料 |
330l |
上面 |
10mm |
出力 |
150hp/1500rpm |
徒渉水深 |
1.00m |
後面 |
20mm |
最大出力 |
170hp/2000rpm |
|
武装 |
九七式57ミリ砲 |
日本で初めての近代的戦車で、主砲に五七ミリ短砲身砲を採用した中戦車。リベット止めされた装甲と車体左側にオフセットされた砲塔、そして“花魁のかんざし”と呼ばれたループアンテナが特徴で、司馬遼太郎がヤスリで削っても削れなかったというエピソードで知られる日本軍の主力戦車である。
開発の開始は1936年(昭和11年)で、八九式中戦車の後継機種としてコンペティションの結果採用された。
基本的には八九式中戦車を九五式軽戦車で採用された技術で再設計したといっていい車両である。
陣地攻撃に優れた大口径砲を搭載しており高い歩兵支援能力を有するが、その反面短砲身砲であるため打ち出される砲弾は低初速であり、対装甲攻撃力が低く、対戦車戦闘がことのほか苦手な戦車でもあった。
完成当時は世界レベルに互した有力な戦車であったが、ノモンハン事件では明確に対戦車戦闘を意識したソヴィエト戦車によって完敗を喫し、さらには第二次世界大戦の勃発と共にシーソーゲームを繰り返す戦車開発競争の激化に日本がついていけなかったため、本車は旧式化していたにも関わらず最後まで戦線に投入され続けることとなった。
中国戦線では主砲弾が切れたとき、おもむろに敵前面で砲塔を真後ろに旋回させ、砲塔後部の機関銃で歩兵をなぎ払ったというエピソードがある。
また、太平洋戦争では緒戦のマレー攻略で活躍している。ただし、アメリカのM3“軽”戦車に勝てない程度の性能しか持っていないため、前線では拿捕したM3軽戦車を出来る限り使用したようである。
自重 |
14.80t |
全備重量 |
15.80t |
装甲 |
砲塔 |
前面 |
25mm |
全長 |
5.52m |
全幅 |
2.33m |
側面 |
25mm |
全高 |
|
最低地上高 |
0.40m |
上面 |
10mm |
履帯幅 |
0.33m |
設置長 |
3.54m |
後面 |
25mm |
接地圧 |
0.66kg/cm^2 |
乗員数 |
4人 |
車体 |
前面 |
25mm |
発動機型式 |
空冷V12ディーゼル |
最大速度 |
40km/h |
側面 |
20-25mm |
排気量 |
21.7l |
航続距離 |
210km |
底面 |
8mm |
筒径×行程 |
120×160mm |
携行燃料 |
330l |
上面 |
10mm |
出力 |
150hp/1500rpm |
徒渉水深 |
1.00m |
後面 |
20mm |
最大出力 |
170hp/2000rpm |
|
武装 |
一式47ミリ砲 |
九七式中戦車の主砲を対戦車戦を考えた四七ミリ長砲身砲に換装したもの。元々は対戦車戦闘任務用の『砲戦車』として開発が行われた車両で、九七式に比べ砲塔が僅かに大型化している。
性能的には独軍三号戦車初期型や米軍M3軽戦車に匹敵したが、開発終了が遅かったためほとんど戦力とはならなかった。
同車はよく「ノモンハン戦での戦訓を取り入れなかった結果開発が進まなかった」と言われているが、実際はそんなことはなく、予算面や技術的問題から開発が進展しなかっただけらしい。もっとも、対戦車戦闘重視へと戦車運用のドクトリンを変更しきれなかったのは現状を甘く見たと言えるが……。
初陣はフィリピン攻略戦終盤で、緒戦での米軍軽戦車との戦闘で損害を受けた前線からの督促により急遽試製として製作されていた車両を臨時編成の上でフィリピンへと投入された。もっとも、到着した時点での戦況はバターン半島の攻防戦へと移行しており戦車が活躍できる状況ではなくなっていた。
その後は九七式と同様、南方各地に送られたが、貧弱な装甲から戦場で玉砕を繰り返した。
なお、新砲塔チハという名称は戦後になって米軍の調査を受けるときに区分する必要から着けられたものらしい。そのため、書類上は「九七式中戦車」のままであり、前線の一部では四七ミリ砲を持つことから「一式中戦車」の名で呼ばれていたという話もあるようである。同様に、「チハ改」、「九七式中戦車改」という名も戦後に広まった名称である。
また、米軍は同車をフィリピン奪回を目前に控えた1944年にようやく「型式は不明だが存在する」と将兵に伝えている。逆に言えば、それまで同車は満足な数が戦線に送られていなかったという証明であろう。
自重 |
14.80t |
全備重量 |
15.80t |
装甲 |
砲塔 |
前面 |
25mm |
全長 |
5.52m |
全幅 |
2.33m |
側面 |
25mm |
全高 |
|
最低地上高 |
0.40m |
上面 |
10mm |
履帯幅 |
0.33m |
設置長 |
3.54m |
後面 |
25mm |
接地圧 |
0.66kg/cm^2 |
乗員数 |
4人 |
車体 |
前面 |
25mm |
発動機型式 |
空冷V12ディーゼル |
最大速度 |
40km/h |
側面 |
20-25mm |
排気量 |
21.7l |
航続距離 |
210km |
底面 |
8mm |
筒径×行程 |
120×160mm |
携行燃料 |
330l |
上面 |
10mm |
出力 |
150hp/1500rpm |
徒渉水深 |
1.00m |
後面 |
20mm |
最大出力 |
170hp/2000rpm |
|
武装 |
一式47ミリ砲 |
九七式中戦車の車体を全面溶接とし、防御力を強化したもの。ドイツ軍の三号戦車と同程度の戦闘力を持つ中戦車で、高いバランスで纏められた優秀戦車であり、この戦車をもってようやく日本軍はM3軽戦車を撃破できるようになった。
しかし、開発終了が昭和17年と遅かった上に量産が軌道に乗ったのは昭和一九年であった。当然ながら、この時期に三号戦車と同程度の戦車で戦果なぞ挙げられるはずもなく、多くは戦線に到着する前に輸送船ごと海の底に沈められ、残った少数はM4シャーマンとバズーカの前に死山血河を築いた。
さらに、量産後も生産優先機材の調整と三式中戦車の開発終了から満足に生産されることもなかった。
防御面では全面溶接の採用と装甲の強化は確かに効果があり、実験で一五センチ榴弾砲の至近弾を受けても何ともなかったという報告がある(九七式の車体は衝撃でバラバラになっている)。
いろいろと外的問題からなにかと言われる戦車ではあるが、少なくとも三式四式のたたき台としての役目は立派に果たした戦車である。
自重 |
14.80t |
|
全備重量 |
15.80t |
|
装甲 |
砲塔 |
前面 |
25mm |
全長 |
5.52m |
全幅 |
2.33m |
|
側面 |
25mm |
全高 |
|
最低地上高 |
0.40m |
|
上面 |
10mm |
履帯幅 |
0.33m |
設置長 |
3.54m |
|
後面 |
25mm |
接地圧 |
0.66kg/cm^2 |
乗員数 |
4人 |
|
車体 |
前面 |
25mm |
発動機型式 |
空冷V12ディーゼル |
最大速度 |
40km/h |
|
側面 |
20-25mm |
排気量 |
21.7l |
航続距離 |
210km |
|
底面 |
8mm |
筒径×行程 |
120×160mm |
携行燃料 |
330l |
|
上面 |
10mm |
出力 |
150hp/1500rpm |
徒渉水深 |
1.00m |
|
後面 |
20mm |
最大出力 |
170hp/2000rpm |
|
|
|
|
|
|
|
武装 |
一式47ミリ砲 |
一式中戦車の車体に九〇式野砲を改造した三式七・五センチ戦車砲を装備したもの。M4シャーマン中戦車の驚異的な強さを目の前にして、これを撃破しうる中戦車として開発された九七式シリーズの最終型である。現在でも実物にふれることの可能な戦車でもある。
側面まではみ出した砲塔には
生産が始まった頃にはすでに戦場は本土決戦という時期まで追いつめられていた。しかし、相変わらず装甲は一式中戦車と同等であり、まともな対戦車戦闘は不可能であった。
この戦車の最も著名なエピソードは、司馬遼太郎が砲塔をヤスリをかけ、砲塔が削れたというものである(戦車の装甲は薄い物は硬い方がよいが、厚くなると靭性の高い方が総合防御力で勝る。そのためにこの時期の戦車はどこの国であろうとヤスリで削れる柔らかい装甲となっていた。このエピソードは日本戦車がヤスリで削れるほどダメなのではなく、材質進化を乗員に教育する時間もなかったという点で戦時を象徴するエピソードなのである)。
以下制作中……
参考文献:[歴史群像]太平洋戦史シリーズ34帝国陸軍「戦車と砲戦車」 学研
「日本の戦車」 原書房